エンジニアのセンスとスピード感を磨く方法

大切なのはセンスとスピード感、若手エンジニアに役立つチップス

への字の口 苦手な物シリーズ1

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苦手な物シリーズを書いてみようと思う。まずはへの字の口から。

 

への字の口というのは、見ていてなんとなく緊張する。あれは「文句を言う準備万端」という状態を、顔の形状で宣言しているように見えるからだ。世間話の範囲で「口元がへの字の人は怒りっぽい」だとか、「目つきが鋭い人は性格がきつい」なんていう話を聞くことがあるけれど、これ、少し考えてみると妙な話だ。というのも、逆に「いつも笑顔でふんわりした顔つきの人は性格が優しい」なんて話には、そこまで強い説得力を感じない。なんでだろう。


思うに、人相に関する話というのは、良い方の印象には裏付けを求めないのに、悪い方の印象には積極的に根拠をくっつけたがる傾向があるからじゃないか。への字口だろうが三日月のような笑顔だろうが、顔の形が性格を決定するわけではない。けれども、「悪い顔つきの人は悪人だ」というのは、物語としてとても手っ取り早いのだ。人間はやっぱり、「顔に性格が出る」という簡単なストーリーが好きなのだと思う。


一度そのストーリーを信じてしまうと、後はもう補強が始まる。ちょっとでも文句を言ったら「やっぱりな」、笑っていても「無理して笑ってるだけじゃないか」となる。そして気が付けば、「あの人はへの字口だから嫌なやつ」という結論を、自分の中で完成させてしまう。これでは、どうやったって「への字の口」の人は勝てない。顔つきで損をする人生なんて、あまりに不公平だ。


まあ、そうは言いながらも、僕自身が気にしてしまうのだから人のことを言えない。たとえば電車の中で、眉間にシワを寄せた目つきの鋭い人を見ると、勝手に「この人、ちょっと怒ってるのかな」と思ってしまうし、逆におっとりした顔の人を見ると安心する。これは僕が悪いのではなく、人類のDNAに刻まれた習性だ、と開き直ることにしている。


ただ、最近はこう思う。顔の印象というのは、どちらかと言えば、その人の「現在地」を反映しているのではないか、と。つまり、性格が顔を作るのではなく、生活や感情のクセが顔の表情に刻み込まれていく。たとえばいつも不満ばかり抱えていると、口がへの字に引き締まっていくし、逆にリラックスして過ごしていれば、笑顔のクセがついていく。


それを考えると、への字の口の人がいたら、「この人は今、何に不満を抱えているんだろう?」と想像するのも悪くない。自分の偏見を少し緩めて、その人の背景に目を向けてみる。そんな風に思考をシフトすると、世間が少しだけ優しくなる気がする。


もちろん、文句を言いたいだけのへの字口の人も確かにいる。でもまあ、そんなのは笑顔の裏に毒を隠している人と同じで、口元だけで決めつけるのは無理がある。たまには、自分の中の「人相フィルター」を疑ってみるのも悪くないだろう。

「食べ過ぎる理由、食べなかった記憶」

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若い頃、食が細いことを気にしていた記憶がある。バイキングに行っても皿の上は空白が目立つくらい少量で、友人たちが大盛りの料理を楽しむのを横目に、ひたすら咀嚼に時間をかけていた。特に朝はダメだった。旅行先の朝食で、仲間が次々とおかわりをする中、自分はほんの少しで満足してしまう。なんとなく取り残されたような気分を味わったものだ。


そんな自分が、歳を重ねた今では、信じられないくらい食べるようになった。早食いも板についてしまい、ご飯はおかわりが当たり前になった。疲れやすくなった分、栄養を求める身体の声が大きくなったのかもしれない。それとも、若い頃には感じなかった種類のストレスが、無意識に食欲を駆り立てているのだろうか。


ストレスが食欲に与える影響については、簡単に説明がつく部分もある。ストレスを感じると脳が過剰に反応し、エネルギー補給のために「食べろ」と信号を出す。特に糖分や脂肪分が多い食べ物は、一時的にリラックス効果をもたらす。ジャンクフードや甘いお菓子が恋しくなるのは、そのためだ。こうして、気づけば必要以上に食べる癖がついてしまう。


食欲がストレスに反応して増えるのは自然なことだ。問題は、それを放置してしまうと、心と身体のバランスが崩れてしまうこと。若い頃の自分を思い出すと、あの少量でも生きていけたのは、やっぱり身体の柔軟性があったからだろう。今の自分にはその余裕がない。だからこそ、食べ方にも少し気を配りたい。ストレスと向き合う方法は、食べる以外にもきっとあるはずだから。

力の尽きる前に

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最近、ふと考えることがある。

仕事の進め方、そしてこれからの仕事人生の選び方についてだ。

得意分野で、慣れたやり方を維持しつつ、「分かっている人」として周囲に頼られながら働き続けるのか。それとも、少し危なっかしくても、これまで挑んだことのない新しい道を歩むべきなのか。どちらにもそれなりの魅力があるし、正直言って怖さもある。


慣れた分野で続ける道は楽だ。

何をどうすればいいかは分かっているし、周囲からの評価も安定している。ただ、楽であるからこその苛立ちがある。「なんでこんなことが分からないんだ」と、後輩や部下に対して無意識に思ってしまう自分がいる。もちろん、そんなことを考えるのは理不尽だし、相手に悪いのも分かっている。それでも、この苛立ちはどうにもならない。慣れた作業を繰り返す中で、いつの間にか自分の中に積もる小さなストレス。それが少しずつ、自分自身を消耗させている気がする。


一方で、新しい挑戦をする道もある。これは刺激的だが、リスクが伴う。

慣れないことに取り組めば、当然失敗する可能性が出てくるし、自分の無力さを思い知らされることだってある。それが年齢を重ねた今では特に怖い。「今さら恥をかくのは嫌だ」という気持ちも正直ある。それでも、未知のものに向き合うことには、どこか捨てがたい魅力がある。新しい挑戦を通じて、これまで見たことのない景色が広がるかもしれない。その可能性を完全に閉ざすのは、やっぱり惜しい気がする。


こうやって迷いながら分かったのは、どちらの道にも光と影があるということだ。

得意な道にとどまるのは、安定と安心をもたらしてくれるが、そこには停滞感も漂う。一方、新しい挑戦は可能性に満ちているが、不安と失敗のリスクも抱えている。どちらが正しいとは、簡単には言えない。


ただ一つ確かなのは、時間と体力には限りがあるということだ。

若い頃と違って、勢いだけで突っ走ることはできない。明らかに体力の回復力が落ちてきているのを感じる。夜更かしが翌日に響き、休日は休むために存在するものになりつつある。だからこそ、力の尽きる前に、一歩でも二歩でも前に進みたい。どちらの道を選んだとしても、今この瞬間にしかできないことがあるはずだから。


最終的には、どちらか一方を選ぶのではなく、両方のバランスを取るのがいいのかもしれない。

得意分野を軸にしつつ、そこに少しずつ新しい挑戦を混ぜ込む。自分の経験を活かして周囲に貢献しながら、その一方で、自分の限界をほんの少しずつ押し広げていく。こうすれば、停滞感に悩まされることもなく、新しい挑戦のワクワク感も失わずに済むのではないか。


結局のところ、仕事人生の終わりに後悔を残さないためには、いま何を選ぶかが大事だ。

だから今日も、自分にできることを少しずつ試してみる。力の尽きるその前に、自分にしか見られない景色を、もう一つでも多く見つけられるように。さて、今日は少し早めに休んで、明日の朝、改めて考えるとしよう。

逃げの理由を考えるプロフェッショナルたち

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世の中には、「やればできるのにやらない」人がいる。そしてさらに厄介なのは、「やらない理由」を考えることにかけて、驚くほどの才能を発揮する人たちだ。こういう人たちは、ただ逃げているのではない。逃げるための理由づけに、頭脳のすべてを費やしているのだ。いわば、逃げの理由を考えるプロフェッショナル。


このタイプの人が出す理由は、大体においてもっともらしい。たとえば、会社で新しいプロジェクトを提案されるとする。そうすると彼らは、「それは予算的に厳しいですね」「上層部が許可しないでしょう」「今はタイミングが悪いです」と、まるで頭の中に「やらない理由データベース」を持っているかのように、次々と反対意見を繰り出してくる。しかも、そのどれもが理にかなっているように見えるのだからタチが悪い。


この現象を観察していると、彼らがやらない理由を作るスキルは、生まれつきの性格というより、どこかで培われたものだと思えてくる。たぶん、幼少期に親や教師から過剰な期待を背負わされ、失敗を恐れるようになったのではないか。または、社会に出てから何かを「やってみて」失敗した経験が、心の中に深い傷を残しているのかもしれない。「やらなければ失敗しない」という論理が、彼らの中で鉄壁の防御策として機能しているのだ。


ただ、ここで見過ごしてはいけないのは、逃げる人たちの背後にある「自己保存の本能」だ。結局のところ、人間は大きな失敗を避ける生き物だ。そして、そのために必要ならば、自分を納得させる理屈をいくらでも作り出す。要は、「やればできること」よりも、「やって失敗すること」の方が彼らにとっては恐怖なのだ。それは理性的に見えるようで、実は感情に支配された選択であることが多い。


さらに皮肉なのは、逃げる理由を考え続けることが「彼らなりの行動」になっている点だ。つまり、彼らの脳内では「考え抜いた末に行動しない」ことが正しい判断とされている。結果として、頭の中だけで全力疾走しているが、外から見るとただ座り込んで動かない人間に見える。これが、周囲との摩擦を生む原因だ。


しかし、ここで重要なのは、彼らを責め立てることが必ずしも解決にならないという点だ。「やればできるのになぜやらない」と説教しても、大抵は逆効果になる。それどころか、ますます「やらない理由」を強化する結果に陥る。そう考えると、むしろ彼らに「やることが怖いんだよね?」とその恐怖を認めてあげる方が、第一歩になるのではないか。恐怖や不安を取り除くには、まずそれを共有し、軽減させる環境が必要だ。


ただし、逃げ続けることが美徳になるわけではない。人生において「やらない理由」に埋もれてしまうと、本当に大事なチャンスを逃してしまう。それは自分だけでなく、周囲の人や社会にとっても損失になる。だからこそ、彼らの背中を押す存在が必要だ。その際に大事なのは、強制するのではなく、小さな一歩を褒めていくことだ。


最後に一つ言わせてもらえば、やらない理由を考えるのが得意な人ほど、実は潜在的な能力が高い場合が多い。それだけ頭が回るわけだから、本来なら素晴らしいアイデアを実現する力も持っているはずだ。問題は、彼らがその力を「やらない理由づくり」に使ってしまっていることだ。その才能を前向きにシフトさせられたら、案外、世界はもっと面白くなるのかもしれない。

 

出来もしないのにやりますと言う人よりも、逃げる人の方が本来は能力は高い。そこはわかっているので期待はされているのです。

ブラックフライデー、ブラックとは

「ブラック」という言葉には、ただの色を超えた深い意味が込められています。不吉さ、神秘、力強さ、そしてスタイリッシュさ――その多面的な魅力は、日常のさまざまな場面に息づいています。今回は、私たちの生活や文化の中で特に馴染みのある「ブラック」を厳選してご紹介します。


1. ブラック企業

過酷な労働環境を象徴する言葉。働き方や労働問題を語る上で欠かせないキーワードです。


2. ブラックリスト

信用を失った人々が登録される、恐怖のリスト。その目に見えない存在感が「ブラック」の名にふさわしい。


3. ブラックコーヒー

砂糖やミルクを加えない純粋な一杯。苦味の中にある深い味わいが、大人の嗜みを感じさせます。


4. ブラックホール

宇宙の神秘であり、恐怖の象徴。すべてを吸い込むその存在は、科学だけでなく文化にも大きな影響を与えています。


5. ブラックサンダー

お菓子界のヒーロー。濃厚な味わいと手頃な価格で、多くの人々に愛される日本の名作スイーツです。


6. ブラックバス

外来種として問題視される一方、釣り人たちには人気のターゲット。自然と人間の関係を象徴する存在です。


7. ブラックペッパー

料理の風味を引き立てるスパイス。ピリッとした刺激が「ブラック」の名にふさわしいアクセントを加えます。


8. ブラックライト

紫外線で特定の物質を光らせる特殊なライト。科学実験やエンターテインメントで欠かせない道具です。


9. ブラックジャック

手塚治虫の名作キャラクターとしても、21を目指すカードゲームとしても知られる言葉。「ブラック」の持つクールさとミステリーを体現しています。


10. ブラックレイン

不吉な雨や暗い出来事を象徴する言葉。映画のタイトルとしても知られ、その響きが物語性を強調します。


11. ブラックボックス

中身が見えない謎の象徴。技術や政治、さらには日常生活に至るまで、幅広く使われる比喩的な言葉です。


12. ブラックジョーク

際どいテーマを笑いに変えるユーモアの一種。使いどころを間違えると場が凍るリスクがある、ハイリスクハイリターンな笑い。


13. ブラックフライデー

年に一度の大セール。「ブラック」の名が持つパワフルさを体現する、消費者にとってのビッグイベントです。


黒のもつ力と魅力

「ブラック」という言葉には、単なる色以上の力があります。それは、不吉や暗さといったネガティブな印象だけでなく、力強さ、洗練、神秘、そして好奇心をかき立てる魅力を兼ね備えています。

黒が背景となることで光や色は引き立ち、同時にその影は私たちの想像力を広げてくれます。「ブラック」に潜む多面的な魅力を日常の中で見つけてみると、新たな発見があるかもしれません。

IQ200

Xを見ていてたまたま出てきたムービー。

下のリンクがXに飛びます。

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https://x.com/syogeki_channel/status/1833431929091461614?s=46&t=HiDxOcaBruQumIHgfQHnsg

 

ガソリン入れていたら、ミニバンが横付けして襲われそうになる。とっさに車から給油ホース抜いて、犯人達にガソリンをかけまくり難を逃れる。

咄嗟の判断に絶賛のコメント多数。

 

これと同じ事を俺は中学生一年生の時にやったのを思い出した。

それは中学校の男子トイレだった。

俺が小便をするのを毎回ふざけて横から覗くやつがいた。単にふざけてやっているだけのだが、何度やめろと言っても止めない。

そこでどうすれば辞めさせられるか考えた。

次の日、トイレについてきて覗きに来た。その瞬間、俺は横に振り向き小便をそいつにかけてやった。やめろーと驚いて離れた。それ以降2度と覗かれることはなかった。

我ながら天才だと思った瞬間だった、どうでもいい思い出。

 

 

 

「広告という名の魔法、あるいは日常的ペテン」

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広告とマーケティング。これらは、少し冷めた目で見ると、「塵も積もればゴミ屋敷」みたいな理屈で成り立っているように思える。つまり、何かを「もっともらしく」見せるための技術。それも、ただの技術ではなく、受け手の脳みそを煙に巻くような「クリエイティブ」と称する曲芸が求められる。

エンジニアからすると、こういうのは怪しさ満点だろう。「モノ」が本質的に良いか悪いか、それだけが問題だという合理主義の立場に立てば、広告やマーケティングの世界が半ばファンタジーで構成されているように見えるのは当然だ。物理的な性能や設計図に嘘はつけない。だが、広告では「心に響く体験」とか「未来を変える可能性」などと言い出す。これを聞いたエンジニアが眉をひそめるのも無理はない。理詰めで設計した回路に、体験も可能性も詰め込めるわけがないのだから。

ただ、広告屋やマーケターの連中にしてみれば、「モノを良く見せる」どころか、「モノそのものを存在させる」のが自分たちの仕事だと信じている。実際、彼らは「ただの砂糖水を文化にする」才能がある。ジュースを「希望」とか「自由」とか「若さ」とかの隠喩に変換するスキルを持っているわけだ。そういう意味で、広告というのは一種の魔法なのだろう。あるいは詐術と言ってもいい。

これが理系と文系の分水嶺という話もわかる。エンジニアは事実に向き合うのが仕事だが、広告屋は物語を作るのが仕事だ。前者は橋が崩れないように構造計算をするが、後者はその橋が「愛を繋ぐ絆の象徴」として消費されるように物語をデザインする。どちらが尊いかという話ではなく、どちらが「好きか」という話になる。理系の人間にとって、広告の世界は耐え難いかもしれない。だが、文系の人間にとっては、エンジニアリングの世界がむしろ味気なく見えるのだろう。

広告がどんなに胡散臭く見えようと、私たちはその恩恵に日々預かっている。電車の中でふと目に入るポスター、ネットでクリックさせられるバナー広告、それらは「またかよ」と思いながらも、実際に我々の選択を動かしている。それが便利さの押し売りだろうと、夢のちょっとしたお裾分けだろうと、結局は誰かが作った「物語」に生かされている。

だから、こう結論づけてもいいかもしれない。

エンジニアが世界を動かしているなら、広告屋はその世界に意味を与えている、と。

怪しい嘘つき? まあ、そうかもしれない。でも、それもまた「モノ語り」の一部だ。

 

 

 

 



 

妨害という行為の心理と目的

妨害とは、人間の営みのなかで、目的の達成を阻止する行動を指すが、これにはいくつかの類型がある。大別すると、直接的な利益を得ようとするタイプと、単に相手を困らせることで快感を得るタイプに分かれるだろう。前者は戦略的で冷徹だが、後者は感情的で幼稚な場合が多い。

選挙の文脈でいえば、SNSアカウントの凍結といった妨害は、相手候補の情報発信を止めることで支持層の拡大を防ぐ、極めて戦術的な行為だ。たとえば、支持者たちがそのアカウントを頼りに情報を得ている場合、突然それが使えなくなると、候補者の影響力が一時的に失われる。選挙戦では1日の遅れが命取りになるため、この種の妨害はかなり効果的だ。

一方で、妨害を行う側の心理には、「優越感」や「自己満足感」も絡むことが多い。たとえば匿名性が保証されるSNSでは、自分の力で相手を潰せるという感覚が、一種の快楽をもたらすのだろう。これは、小学生が砂場で他人の城を壊して喜ぶのと本質的には変わらない。


妨害の種類とその構造

妨害を整理してみると、大きく以下のようなカテゴリに分類できる。

1. 直接的妨害(物理的な阻止)

• 例: 道路を封鎖する、情報を遮断する。

• 特徴: 効果は高いが、リスクも大きい。

2. 心理的妨害(プレッシャーを与える)

• 例: ネガティブキャンペーン、誹謗中傷。

• 特徴: 相手に精神的負荷を与えることを目的とする。

3. 間接的妨害(第三者を巻き込む)

• 例: 周囲を煽って相手の評判を下げさせる。

• 特徴: 自分の手を汚さずに行えるためリスクが低い。

4. 環境的妨害(システムを悪用する)

• 例: SNSの凍結申請を大量に送りつける。

• 特徴: テクノロジーを利用するケースが多く、発覚しにくい。

 

選挙におけるSNSアカウントの凍結は、このうち「環境的妨害」に該当するだろう。巧妙で目立ちにくく、直接的な証拠が残りにくいため、現代的な妨害の典型例だ。


日常に潜む「無自覚な妨害」

ところで、妨害という行為は、選挙のような大舞台だけの話ではない。むしろ、我々の日常生活にも頻繁に登場する。しかもそれは多くの場合、本人が自覚すらしていない形で行われる。

たとえば、職場でのミーティング中に、まだ結論が出ていない話題を無理やり「自分のアイデア」でまとめてしまう人がいる。これは、一見効率を重視しているように見えるが、実は他人の意見を潰す「妨害」になりうる。また、SNSで友人の投稿に対して的外れなコメントをつけるのも、一種の妨害だ。本人に悪気はないかもしれないが、発言の流れを止めたり、空気を変えてしまったりするのだ。

我々は知らず知らずのうちに、こうした「無意識の妨害」を日常的に行っている。これを防ぐには、「自分の行動が相手の進行を妨げていないか」という意識を持つことが重要だ。

 

知事選挙の犯人を推測する

さて、今回の知事選挙におけるSNSアカウント凍結の件に話を戻すと、犯人像として考えられるのは以下の3パターンだ。

1. 対立候補の陣営

• 自分たちの優位性を高めるため、戦略的に妨害を仕掛けた可能性がある。特に接戦の場合、こうした行為が行われるリスクは高まる。

2. 熱狂的な支持者

• 候補者本人や陣営が指示したわけではなく、過激な支持者が独断で行ったケース。これは昨今、政治の場でよく見られる問題だ。

3. 第三者(いたずら・陰謀論者)

• 政治的意図はなく、単に混乱を楽しむために行った可能性もある。この場合、事件はより一層迷宮入りしやすい。

いずれにせよ、SNS凍結が意図的に行われたのであれば、特定の陣営または個人が計画的に行った可能性が高い。ただし、問題は「SNSの運営側がどこまで透明性を持って対応するか」という点にある。ここにメディアや国民の関心が向かない限り、真相が闇に葬られる可能性も十分にあるだろう。


総括

妨害という行為は、人間の競争本能や優越感から生まれる、一種の「攻撃的なコミュニケーション」といえる。それが戦略的であれ感情的であれ、妨害がもたらす影響は大きい。そしてそれは、選挙のような場だけでなく、私たちの身近なところにも潜んでいる。重要なのは、他者との関係性の中で、自分の行動が相手の自由を妨げていないかを自省することだろう。

 

 

 

「SNSでやらかす人たち」

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SNSで余計なことを書いてしまうおっちょこちょい――いますねぇ、そういう人。


このタイプの人、特徴としては「気持ちが先走る」んですね。たとえば、誰かの投稿を見て「あ、これ、俺も思ってたやつ!」って共感のボタンを通り越して、何か気の利いたコメントをしようとしてしまう。その結果、「ん?これ、誰に刺さるの?」みたいな微妙な書き込みが生まれる。しかもそういうコメントほど、翌朝読み返して悶絶するんです。手のひらでスマホを握りつぶしたくなるほどに。


あるいは、ちょっとした社会問題に「これが正論だ!」とばかりに語りだして、結果的に炎上するタイプもいる。「正しいことを言ってるはずなのに、なぜか怒られる」という現象に直面するんですね。でもこれ、案外本人には悪意がないんです。ただ、情報収集が甘かったり、場の空気を読むセンサーが故障気味だったりするだけなんです。


あと、おっちょこちょいには「飲み会のノリを持ち込む」派もいます。深夜にアルコールが入った勢いで「これ面白いだろ」と思って投稿し、翌朝の通知で血の気が引く。あの冷えた感覚は、SNSあるあるのひとつですね。


結局、SNSは即時性が武器でもあり、落とし穴でもあるんです。書いたそばから全世界に発信されるなんて、昭和時代にそんな危険な仕組みがあったら、大人たちは卒倒したでしょう。手紙を書いてポストに投函する、その前に読み返す――こういうプロセスの有用性を改めて思い知ります。


でもまあ、そういうおっちょこちょいの投稿がSNSの彩りでもあるんです。「うっかり」がなければ、タイムラインは無味乾燥なニュースフィードに成り下がりますからね。問題は、その「余計なこと」がどれだけダメージを与えるか。その匙加減、意外と難しいものです。


あなたも、気をつけてくださいよ。なんて、書いている私自身が一番気をつけるべきかもしれませんけどね。

深めるか、広げるか、それとも

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専門性を深めるか、広げるか――これはなかなか悩ましい問題だ。人生は有限だし、頭の容量も無限じゃない。どちらかを選ばないといけない場面は、いずれ必ず訪れる。でも、どっちが正解かは、実は結構ケースバイケースなんじゃないかと思う。


まず、一つの専門を深めることのメリットはわかりやすい。「この人と言えばこれだよね」という看板ができるし、その道のプロとして信頼されやすい。何より、極めることでしか見えない景色というのは確かにある。地層を掘り続けていると、他の誰も知らない鉱脈にたどり着くこともあるわけだ。でも、掘れば掘るほど周りが見えなくなるリスクもある。いわゆる「専門バカ」ってやつだ。深さを求めすぎて、自分の視野を狭くしてしまうのは、少し危険かもしれない。


一方で、幅を広げる方向性。これには「関連性」が重要なポイントになると思う。全く無関係な分野に飛び込むのは、言ってしまえばかなりの冒険だ。もちろん、「全くの異分野で大発見」という成功例も世の中にはあるけれど、それはほんの一握りだろう。ほとんどの場合、新しい分野に興味を持つのは難しいし、たとえ興味を持てても、そこに費やす時間と労力がかなり大きい。だから、まずは自分の専門とどこかでつながりがありそうな分野をターゲットにするのが現実的だ。

ただし、「深める」か「広げる」かを選ぶには、自分の性格やスタイルを理解しておく必要がある。極めることが好きな人もいれば、広く浅くの方が性に合っている人もいる。それぞれのタイプに合ったやり方を選ばないと、結局どっちつかずになってしまう危険性がある。


結論としては、「関連性のある範囲で幅を広げつつ、必要に応じて深掘りをする」のがバランスの良いアプローチだと思う。専門性は結局のところ、個人の「地図」みたいなものだ。地図の範囲を広げるために新しい分野に挑戦するのもいいし、一つの地点を深く掘り下げて詳細な地形を描き込むのもいい。でも、地図を描く手を止めてしまうと、どこにも行けなくなる。それだけは避けたいところだ。

 

一般的には上記の通りなのだが、書きながらこれではつまらない人生かなと思えてきた。今の仕事に全く関連性なくのも、子供の時、若い時に興味があった事、夢見ていた事にまだ興味があるなら、それにチャレンジしてみるのも良いだろう。人間最後に後悔するのは、失敗した事で無く、やらなかった事だって言うから。

今週のお題「生活の知恵」

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今週のお題

コーヒーを飲みながら、コーヒーフレッシュの容器を逆さまにして残った数滴を亡くなった父はいつも手に塗っていました。

確かに、コーヒーフレッシュというやつ、名前にはミルクを匂わせる響きがあるくせに、その実態はただの油に乳化剤を混ぜたもの。飲み物として使うのに、どう考えても身体には良くなさそうな代物です。でも、そんなことを気にするような父ではありませんでした。


「だけどさ、飲んで平気なんだから、手に塗るくらいなんでもないだろう?」

得意そうに言いながら、父はコーヒーフレッシュの最後の数滴を手の甲に押し出して、満足げに塗り込んでいました。


最初は驚きましたよ。いや、もっと正直に言うなら、ちょっと引きました。「何やってるんだろう、この人」って。でも、試しに自分でもやってみたら、これが意外としっとりするんです。油分のおかげでしょうか、あの小さなプラスチック容器から搾り出された数滴の液体が、乾いた手を妙に潤してくれる。その感触の妙味に、ちょっとだけ感心してしまいました。


振り返れば、父のこの発想には、生活の知恵のエッセンスが詰まっています。使い捨てにされるはずのものを別の用途に活かす。しかも、理屈がシンプル。「飲んでも死なないものなら、手に塗るのはもっと大丈夫」という、なんとも言えない楽観的なロジック。それが正しいかどうかはさておき、心のどこかで「確かにそうかもな」と思わせる力がありました。


父がこの知恵をどこで仕入れてきたのかは、今となっては知るすべもありません。ただ、あの「これ良いだろう?」という得意げな顔は、今でも記憶に鮮やかです。きっと、何かの拍子に思いついて、自分で試してみて「いける」と確信したのでしょう。その瞬間、彼の中で「コーヒーフレッシュ=手の保湿剤」という公式が完成した。そんな気がします。


もちろん、科学的にはどうなのか、厳密なことは分かりません。でも、コーヒーフレッシュを飲み物に使う時点で、それを気にするのは筋が違う気もするんですよね。生活の知恵というのは、そういう小さな工夫を楽しむものなんだと思います。大げさじゃなく、ちょっとした手間を省いたり、意外な使い道を見つけたりすること。それが生活の中でささやかな喜びを生む。


今でもコーヒーフレッシュを見るたびに、父のあの姿を思い出します。ほんの数滴の液体が、小さな潤いを与えてくれるだけじゃなく、家族の記憶という潤いも残してくれた。


こんな知恵、たまには悪くないですよね。

いかがでしょうか?

 

 

 

ゴミ捨てのある日

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これはフィクションでなく先週の出来事です。

 

ゴミ捨て場での出来事というのは、生活のドラマを垣間見せることがある。日常の何でもない風景の中に、見逃せない問題や、人の心の奥行きが顔を出す瞬間だ。たとえば資源回収の日や燃えないゴミの日に、毎回普通ゴミを出す人がいる。それ自体はよくある「ルール違反」で、回収車は律儀に注意書きのシールを貼ってゴミを置いていく。でもその置き去りになったゴミ、問題はその後だ。カラスがやってくる。あの黒いヤツらは、こっちの事情なんてお構いなしだ。袋を引き裂いて中身を散らかし、周囲をめちゃくちゃにしていく。


そんなゴミ散乱事件に直面したのが、僕がごみ収集所の掃除当番だった週だ。やられた。バラバラに散らかったゴミを片付けながら、「誰だよ」と思わず呟いた。しかも中身には名前の書いた紙が混じっていて、犯人(いや、違反者か)はすぐに分かった。注意に行きたくもなるが、そうはならなかった。なぜかと言えば、近所のおばさんたちが集まって手伝いながら話してくれたのだ。「あの人ね、最近ちょっと認知症が進んでるみたいで、ゴミの日が分からなくなってるらしいのよ」と。


なるほど、それで全てが腑に落ちた。曜日の感覚というのは、案外簡単に崩れてしまう。特に認知症になってしまうと、それは混乱の元になるだけでなく、余計に人を追い詰める可能性がある。注意することで状況が改善するどころか、逆に危険になりかねないことを知って、声をかけるのはやめた。彼のためにも、そして自分のためにも。

 

認知症が進むと、曜日の感覚を失うのは誰にでも起こり得るんだ。だけどゴミを捨てなくてはならないことだけは絶対に忘れない。正確には毎朝出さないといけないと、それで頭がいっぱいになっているのだろうけど。

 

後日追記;

その一週間の資源ごみ回収の日にまた捨てられていた。たまたまその場で町内の人に出会ったのでまたですねと聞いたら、50代の息子もいるとのこと。詳しくは聞いてないが、話しずらい状況だとか、、、決められた日に出ていないのは、深刻な家庭家族状況あるようです。

町内会の毎月のニュースで正しくゴミを出しましょうと嫌味のように書かれていますが、普通の人はそんなこと言われなくともいつもしてますし、そうでない状態の人は理解できてないので効果が無いですね。町内の役員達としては誰がどうしているのか全部把握しているのでしょうが、おかしな人たちに直接注意は怖いので一般的な注意で管理してます感を出しているので精一杯というところでしようか。

 

 





トリッキーな人

玉木雄一郎は本心は何を考えているのかわからない。103万円の壁もガソリン減税もそれがメインではないだろう。小手先でよく見せるトリッキーな人物なんだろう。

 

「トリッキー」とは、一筋縄ではいかない人や状況を指す言葉だ。裏をかく、出し抜く、あるいは単に予測不能でいる――そういった要素が含まれる。トリッキーな男とはつまり、周囲の意表を突く才能に長け、その場の空気や人間関係を手玉に取るような人物を言うのだろう。

 

大体トリッキーな人物は、若い頃に自分を守るために編み出した処世術が、いつの間にか「トリック」としての洗練を深めていく。自分も結構そうだからわかる。


社会に出てからは、さらに巧妙になる。上司には媚びず、部下には恐れられない――そんな絶妙な距離感で立ち回る。結果を出しているように見せながら、責任の核心には近づかない。この器用さは短期的には無双だが、長期的には周信用を囲に摩擦を生む。そしてある時、築き上げたものが音を立てて崩れる。自分もかなりそうだからよくわかる。

 

信用を失ったトリッキーは、これから先はどうなるだろうか。友人は少ないが、一人で孤独を楽しむように見える。最後のトリックは、人生をそれなりに満喫したと思い込むことかもしれない。

目標が先か、人が先か

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新しいプロジェクトを始めるときに、方法論としてよく議論されるのが、「目標を先に決めて、役割を整理して進めるべきか」それとも「まず優秀な人材を集めて、後からやることを考えるべきか」という問題だ。どちらのやり方がうまくいくかという問いに答えようとすると、どうしてもありがちな結論になりがちだが、今回は少し違う視点から考えてみたい。


まず、「目標を決める派」の主張は分かりやすい。「何を目指しているか」をはっきりさせておけば、進むべき道筋が見えてくるし、迷わずに効率よく動ける。たとえば、遠足で「山頂まで行こう」と決めておけば、必要な装備や地図の準備、道順の確認がスムーズになるのは自明だ。


しかし、このやり方の罠は、「目標が正しいかどうか」が分からないまま、やたらきちんとした計画だけが立派に整うことだ。目標そのものがずれていた場合、後戻りは難しい。ましてや、大勢の人が関わるプロジェクトなら、全員のモチベーションが「これでいいのか?」と揺らぎ始めるのは時間の問題だ。


一方、「優秀な人材をまず集める派」はどうか。このアプローチには、ある種の楽観主義が必要だ。「優秀な人たちを集めさえすれば、何とかなる」という信念は、確かに魅力的だ。実際、歴史的にも優秀なメンバーが揃ったチームは、大きな成功を収めることが多い。


ただ、この方法には一つの問題がある。それは、集まった「優秀な人たち」が必ずしも同じ方向を向くとは限らない、という点だ。彼らが個々の能力の高さをアピールするだけで、チームとしてのまとまりが生まれなければ、結局は「全員が別々の山を登り始める」結果になる。


では、どちらが「上手くいくか」? ここでつい陥りがちなのが、「どちらか一方を選ぶ」という思考だ。けれど、実際には両方のアプローチのバランスを取る必要がある。まずは、「大まかな目標」を立てて、その枠組みにフィットしそうな「柔軟で賢い人たち」を集める。目標はあくまで「仮」であり、優秀な人たちの意見を取り入れながら微調整していく。このプロセスを繰り返すことで、現実的かつ共有可能な目標が形成される。


大事なのは、「目標を決めること」と「優秀な人を集めること」が、どちらもプロセスの一部でしかないという認識だ。要するに、「目標ありき」でもなく、「人ありき」でもない。「動きながら考える」という実験的な態度こそが、何よりも重要なのだろう。


結局、最初に必要なのは「やってみよう」という気軽な決意と、失敗を許容する寛容さだ。プロジェクトの成功は、方法論よりも、そこに関わる人々がどれだけ楽しんでいるかにかかっている。だからこそ、迷ったらまず一歩踏み出してみるのが正解だ。あとは、優秀な人も、正しい目標も、きっとあとからついてくる。

寒いのと暑いのでどちらが嫌いか

寒いのは「奪う」もの、暑いのは「押しつけてくる」もの。どっちが嫌いかは性格が出る。

こう言われるが、海外現場の仕事で北極圏でのマイナス50度とイラクでのプラス50度を超える実体験から言うと、寒さはとにかく痛くて長くは耐えられない。強い日差しも痛いが日陰に入れば問題はない。

寒くなってきた時はもっと寒かった時を思い出して大したことないなと自分を誤魔化して耐えます。