苦手な物シリーズを書いてみようと思う。まずはへの字の口から。
への字の口というのは、見ていてなんとなく緊張する。あれは「文句を言う準備万端」という状態を、顔の形状で宣言しているように見えるからだ。世間話の範囲で「口元がへの字の人は怒りっぽい」だとか、「目つきが鋭い人は性格がきつい」なんていう話を聞くことがあるけれど、これ、少し考えてみると妙な話だ。というのも、逆に「いつも笑顔でふんわりした顔つきの人は性格が優しい」なんて話には、そこまで強い説得力を感じない。なんでだろう。
思うに、人相に関する話というのは、良い方の印象には裏付けを求めないのに、悪い方の印象には積極的に根拠をくっつけたがる傾向があるからじゃないか。への字口だろうが三日月のような笑顔だろうが、顔の形が性格を決定するわけではない。けれども、「悪い顔つきの人は悪人だ」というのは、物語としてとても手っ取り早いのだ。人間はやっぱり、「顔に性格が出る」という簡単なストーリーが好きなのだと思う。
一度そのストーリーを信じてしまうと、後はもう補強が始まる。ちょっとでも文句を言ったら「やっぱりな」、笑っていても「無理して笑ってるだけじゃないか」となる。そして気が付けば、「あの人はへの字口だから嫌なやつ」という結論を、自分の中で完成させてしまう。これでは、どうやったって「への字の口」の人は勝てない。顔つきで損をする人生なんて、あまりに不公平だ。
まあ、そうは言いながらも、僕自身が気にしてしまうのだから人のことを言えない。たとえば電車の中で、眉間にシワを寄せた目つきの鋭い人を見ると、勝手に「この人、ちょっと怒ってるのかな」と思ってしまうし、逆におっとりした顔の人を見ると安心する。これは僕が悪いのではなく、人類のDNAに刻まれた習性だ、と開き直ることにしている。
ただ、最近はこう思う。顔の印象というのは、どちらかと言えば、その人の「現在地」を反映しているのではないか、と。つまり、性格が顔を作るのではなく、生活や感情のクセが顔の表情に刻み込まれていく。たとえばいつも不満ばかり抱えていると、口がへの字に引き締まっていくし、逆にリラックスして過ごしていれば、笑顔のクセがついていく。
それを考えると、への字の口の人がいたら、「この人は今、何に不満を抱えているんだろう?」と想像するのも悪くない。自分の偏見を少し緩めて、その人の背景に目を向けてみる。そんな風に思考をシフトすると、世間が少しだけ優しくなる気がする。
もちろん、文句を言いたいだけのへの字口の人も確かにいる。でもまあ、そんなのは笑顔の裏に毒を隠している人と同じで、口元だけで決めつけるのは無理がある。たまには、自分の中の「人相フィルター」を疑ってみるのも悪くないだろう。