最近、「自分にとって合理的かどうか」で人生を判断する人が増えた。
結婚相手を選ぶときも、「価値観が合うか」「ストレスがないか」。
転職では「給料」「働きやすさ」「やりがいのバランス」。
友人関係も、「会って元気をもらえるか」「時間の無駄じゃないか」。
そんな風に、人生のあらゆる局面を“採算表”で管理しているうちに、
私たちはいつのまにか「損得の国」の住人になってしまった。
でも、人間の心というのは、どうしたって非効率だ。
どれだけ理屈を並べても、好きになる相手は間違えるし、
仕事だって「正解」に飛びついたつもりが、半年後には「なんか違った」とため息をつく。
合理的な選択が、必ずしも幸せを連れてくるわけではない。
たとえば、動物に話しかける自分を思い出してみよう。
「お前、今日も元気か?」と猫に言っても返事はない。
それでも、その一瞬、心が少し救われる。
散歩中に咲いている花に足を止め、
風に揺れる花びらを眺めるだけで、
何か大切なものを思い出した気がする。
あれは完全に非合理だ。
時間の浪費であり、生産性ゼロ。
けれど、そのムダこそが、心の呼吸になっている。
そして、もっと厄介なのが家族だ。
介護が必要な親や、関係がこじれた親類。
合理的に考えれば、距離を置くのが正しい。
他人ならきっとそうする。
でも、親だけは、どうしても見捨てられない。
見捨てたら、自分のどこかが欠けるとわかっているからだ。
人の絆というのは、理屈じゃなく、記憶と習慣と、そして少しの情でつながっている。
そこに損得を持ち込むと、たいてい破綻する。
結局、愛というものは、人生における不採算部門だ。
時間もお金も手間も食う。
しかも、ほとんど見返りがない。
それでも、人はそこに何かを投じずにはいられない。
なぜか。
たぶん、それが「生きている」という感覚そのものだからだ。
合理主義は、便利だし、効率的だし、頭のいい生き方にも見える。
でも、あまりにも自分に最適化しすぎると、
やがて他人も自然も、「不要なノイズ」として切り捨てるようになる。
その瞬間、心は静かに乾いていく。
猫を撫でる手も、母の手を握る指先も、花を見つめる視線も。
そこには、誰に見せるでもない愛がある。
それを守るために、人は少しくらい不器用で、非合理であったほうがいい。
効率だけでは、人間は息が詰まってしまう。
だから、せめてこの時代に、非合理の余白を少しだけ残しておきたい。
無駄な優しさ、報われない思いやり、
誰に頼まれたわけでもない愛。
それらがまだ人の中に残っているうちは、世界はきっと大丈夫だ。
そう、All you need is love.