生物の基本は、子孫を残して命を繋ぐことにある。環境の変化に応じて自らを変異させ、適応していく。すべては生存のためだ。なぜこれほど精緻なシステムが最初から組み込まれているのか、私にはわからない。自然の営みを前にすると、ただ圧倒されるばかりだ。
翻って、人間の記憶や知見はどうだろうか。こちらはDNAのように自動的には引き継がれない。言葉にし、身体を使わなければ、一代限りの煙となって消えてしまう。
その継承の手段として、私たちは二つの方法を知っている。
ひとつは、直接手から手へと伝える「徒弟制度」だ。目の前で見せて、やらせて、身体に記憶させる。もうひとつは、書籍やメディアといった形にする「記録」だ。間接的に、かつ大人数に効率よく残すことができる。
では、これら「直接」と「間接」のほかに、何か別の継承方法はあるだろうか。そんなことを、最近よく考えている。
生命がこれほど長く続いてきたのは、親の完全なコピーを作ってきたからではない。あえてコピーに「エラーやゆらぎ」を内包させ、次の世代が新しい環境に適応するための余白を残してきたからだ。
だとすれば、人間の知見を遺す第三の方法とは、「あえて不完全なまま手渡すこと」かもしれない。
すべてをマニュアル化せず、すべての答えを教えない。あえていくつかのピースを欠いた状態で、次の世代にその場を譲る。残された人間は、目の前の現実と生き残りをかけて対峙し、自らの頭で考え、その穴を埋めていくしかない。その過酷な試行錯誤の中で、彼らは元の知見をなぞるだけでなく、時代に合わせた「独自の進化」を遂げるのだ。
手取り足取り教えることだけが継承ではない。精巧な記録を遺すことだけが正解でもない。
彼らが自ら変わり、生き抜いていくための「空白」を置いていくこと。それもまた、去りゆく者が自然の理から学ぶ、ひとつの誠実な手向けなのだろう。
今週、何か一つは小さくも発見、感動、進歩、ありますように。自分にも皆にも。